親分の事件簿~初恋編~
去年と比べれば、涼しい梅雨の終わり頃、と言ったところだろうか。
それでも7月中旬だ、暑いには決まっている。外に出れば海風が当たる土地柄で涼しくも感じるが、屋内に入ればムシムシとした空気が身体全体を包む。
こんな時、あいつの声だけは聞きたくないものだと、親分は考えていた。
「てーへんだ、てーへんだっ!!」
そら来たかと親分は土間の方へと目をやった。
息を切らしたハチは、いつものように入口から土間へと、崩れ落ちながら入ってきた。
「また良い時分で来やがるな~、お前さんは・・・」
皮肉混じりにキセルを口から離さずに言った。
「な、何がですか・・・?」
まだ息のととなわないハチは意味が理解できないでいる。
「べつに・・・」
親分もそれ以上は何も言わなかった。
「それよりも大変なんですよ、これこれ、これを見てくださいなっ」
ようやく立ち上がったハチは親分の前に玉を差し出した。
トマトの下の方から黒く
なる症状
「何だ、トマトじゃねーか、これがどうかしたのかよ」
親分はトマトを受け取る素振りは全く見せず、そっぽを向きながら答えた。
ハチはこういった親分の態度には慣れているのか、そっぽをむいた顔に「えいっ」とばかりにトマトを擦りつけた。
「この野郎!何しやがるっ!」
さすがに親分もこの行動には腹が立ったのか、ハチの顔を睨みつけた。
「はい、親分よーく見てくださいよ、このトマト下の方が黒くなっちまってるんですよ。」
しめたとばかりにハチが説明を始めた。
「今の所は一株に2~3個のトマトがなり始めていて・・・全部ではないんですが」
ハチが真面目である事を感じた親分は「ふんっ」と息を吐いてから、あっさりと答えを告げた。
「そりゃー、尻腐れ病だ・・・」
親分はまたハチから目を外す。
「尻、尻、シリ、腐れっ、腐れ・・・」
妙な病気の名前にハチがなぜだか興奮している。今度は「はーっ」と深い溜息をついて親分はハチに目を戻す。
「落ち着けハチ、お前ーの尻は元から腐ってるんだ、それ以上は腐らねーから安心しろ」
ハチは興奮した動きを止めて親分を睨んだ
「なんすか、そりゃーっ」
前置きが長かったが、ようやく親分の解説が始まった。
「腐れ系の病気は要素の欠乏が原因で起きるものが多い。この尻腐れ病の場合はカルシウムの欠乏で起こる。」
親分はトマトを手のひらで回しながら説明を続けた。
「土中には植物が必要とする要素が含まれているマグネシウムやカリウム、リン、チッソ、カルシウムなどだ、他にも微量要素として鉄やマンガンなんかもあるな」
ぽかーんと口を開けながらも、真剣に聞いていると分かる表情で、ハチは親分を見ていた。
「このどれもが欠けちゃならねー物なんだ。そりゃー俺たち人間だって同じだろよ。必要なカルシウムを摂取できなければ、何とかって病気になっちまうだろ」
人間の病気になるとからっきし駄目な親分の説明を、いつの間にか筆で記録しているハチ。
こちらは逆にチッソ系肥料が
多いとかかりやすいと言われる
「うどんこ病」
与えすぎも病気の原因
「ん、お前ーさん今日はやけに真面目じゃねーか?」
「いえ、別にー・・・」自然と目が泳ぐハチ
「待てよー」
親分は腕を組、右手でアゴの無精ひげをなで始めた。親分の頭の中でいくつもの歯車が回り始め、いくつかの歯車が音をたてて合い始めた。
ハチはそーっと土間の方に右足を伸ばし、逃げる体制を作っていた。
「待てっハチ!」
「ハイっ!」
「お前ー、そういや最近、あの事件を解決した、庄屋の所へちょくちょく出入りしているそうじゃねーか。(2011年11月5日親分の事件簿~土謎編~より)」
ハチは何の事やらと言う素振りで、親分の顔を見ようともしない。
「そういや、あそこには年頃の娘がいたな・・・・」
そこまで言うと明らかにハチの顔は変化した。
ひょっとこ見たいな顔になったハチは、観念したのか親分に事情を話した。
結局、罪を認めた父が居なくなり寂しさに泣きくれていた娘を見守っていたらしい。娘は園芸が好きで野菜なども育てているらしく、今回、病気の相談を受けたのだとハチは言った。
「この野郎、最初からそう言やー、いいじゃねーか!」
ハチは恥ずかしそうに頭を掻いて下を向いた。
園芸店で売られている
カルシウム。液体タイプや
粒状タイプ、粉末タイプなど
色々販売されている。
当店は粒状タイプ
「ハチこいつを持って行って、株元にまいてやれ」
親分はカルシウム剤の入った巾着袋を放った。
「はいや~っ」
妙な声を上げてハチはその巾着を受けっとた。
「そら、早く行けっ!」
親分はハチの尻を叩いた。
ピシャっと良い音がした。
どうやらハチの尻は腐っていない様だ。
親分はハチがよろめきながら走る姿を見送りながら思った。
ブラックドッグ・セレナーデ